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田中美知太郎全集 第七巻 pp.417-419 『道具としての書物』

AD2014(平二十四).05.29(木)THU
田中美知太郎全集 第七巻 pp.417-419 『道具としての書物』

書物に対する関係は、人によっていろいろ違うのではないかと思う。また場合によっても異なり得るわけである。
私にとっては、多くの場合、ものの確実な知識を探り出すための道具という感じがする。まず字引のようなものである。もし完全な辞書があるとすれば、他の多くの書物の使用が節約されるわけである。しかしそのような辞書は事実上存在しないから、わずかなことを確かめるためにも、ずいぶん沢山の書物をひっくりかえして見なければならないことになる。しかも私の知りたいと思うのは、単なる言葉の意味ではなくて、事柄そのものなのであるから、ひとつ書物で間に合うことはほとんどない。ちょうど探していたことが書いてあっても、それが確実であるどうかを、他の独立書物によって確かめてみないと安心ができない。いきおいたくさんの、信用できる書物が必要になってくる。ところが、わが国にはその種の書物が甚だ少ない。何度も使って、事物の真相を究めようとすると、たちまちこわれてしまう。実に安手のぼろ道具ばかりである。いかにも物識りらしく、何でも知っているかのように見せかけている書物が、いざという時に、何の役にも立たないということが実に多いのである。無論、どんな書物にも完全をもとめることはできない。個人の知識は限られている。しかしその限られた範囲では、いつも真相を知るための手掛かりとなるような、何か確実なものが与えられていなければならない。もしそうでなければ、それは全く虚妄の書物である。しかるにわが国の書物の多くは、何の頼りにもならないこの種虚妄の書物なのである。なぜこのようなソフィストの書が横行するのであろうか。それは多くの読者が、書物を真理探求の道具として自由に使用することを知らないからであろう。少なくとも大半の理由はそこにあると考えられる。これからはその点の教育が必要であると言わなければならない。品物はつねに使用によって批判されるのである。このためには、私たちは書物を究極のものと考えることのないようにしなければならない。究極のものは、むしろ真理とか、真実とか呼ばれているものが、それであると言わなければならないであろう。書物はそれへの一途たるに止まる。それは法廷に立たされた証人のようなものであって、私たちはそれらの証言を利用して、事件の真相に肉迫しなければならない。しかるに多くの読者は、弁護士の雄弁に夢中になったり、証言のひとつひとつに興奮したりして、それらへの拘泥のために、事件の真相がどこにあるかを考えようともしない。
人々が今日まで虚妄の歴史哲学や政治哲学に欺かれて来たのは、そのような愚かさのためである。外国の書物を取って見ても、どうやら読めて、その意味が分かれば、それでもう満足してしまう。語学の練習に読むのなら、それで結構かも知れないが、言葉よりも事物を学ぶためなら、そんな読書はむしろ有害であるといわなければならない。語学力の不足が、時にはこのような読書態度を生む。訳読が究極目的となり、それが苦しい骨折りの終点になる。そんなことでは、我が国の学問はいつまでも独立することができないであろう。真実を明らかにするための道程、手段としては、どこの国の言葉で書いてあろうとも、全く同じことである。私たちは遠慮なしに、それらをいわばこきつかうくらいの度胸がなければならない。無論それらの書物に結晶されている、学者の労苦を思えば、私たちはいくら感謝しても、感謝しきれないのである。私たちは真実のある書物を前にして、一種敬虔な感じに打たれる。しかし友愛よりも真実を重しとした学問的精神は、師友を批判するの義務さえも私たちに課したのである。いかなる書物も、真実を明らかにするという、学問共通の目的を前にしては、絶対的価値を主張することはできない。私たちは感謝しながらも、これを遠慮なく利用しなければならない。決してその前に拝跪すべきではない。しかしかくのごとき利用に堪え得るがごとき書物を多く出し得ないことが、まさに我が国学問の弱点なのではないか。