混ぜるな危険(公開版)

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本作品には、知られている限り、著作権の制約が存在していません。

エッシャー未発見版画〜駐在武官小野寺信

www.huffingtonpost.jp

オランダで愛されてやまない、だまし絵画家M・C・エッシャー。死後43年経った今も、その無限に続くパターンと、数学とアートの交錯する作品が専門家を驚かせている。
8月、オランダのエッシャー美術館は、1924年に製作されて以来ずっと忘れられていたスケッチが見つかったと発表した。
タイトルのついていない、この貴重な絵を所有していたエッシャーの家族も、作品を美術館に売ると決めるまで、絵に描かれている場所はわかっていなかった。しかし、学芸員のミッキー・ピラーのおかげで、未発表の作品が一般に公開されるようになり、エッシャーがどこを描いていたかが判明したのだ。
エッシャーは、イタリアの首都ローマから約20キロ北東の街、モンテチェーリオを描いていた。

引用元 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13137112768
YAHOO知恵袋rainzr400さんの質問
「太平洋戦争前 海軍では山本 小沢 井上は開戦に反対していたようですが陸軍はイケイケだったんですよね。
陸軍で戦争に反対した人はいないんですか? また陸軍が米国に勝てると思っていた根拠はなんですか? 」
に対してベストアンサーに選ばれなかったnichiro04さんの回答
2014/10/2314:04:20
1940年~45年まで、スウェーデン駐在武官をしていた小野寺信(陸軍大佐、後に少将)は、様々な有益な情報を入手して、独の進撃に期待して三国同盟締結や対米参戦を行うのは危険である、という考えを大本営に送っていました。

当時日本は、ポーランド(亡命政府)やバルト三国と情報収集の分野で協力関係にあり、小野寺はそこから得られた独軍ソ連軍に関する情報を分析して、確度の高い情報を引き出していたのです。

例えば、独軍は仏を降伏させた後、余勢をかって英国本土に上陸するつもりでした。しかし独空軍は英空軍に撃退されて、独は上陸作戦に必要な制空権を確保できていない。また、独軍が上陸作戦に必要な上陸用舟挺の準備が進んでいない。
(こういったことから、独軍は英国本土の上陸を結局断念します)

さらに独ソ戦が開始されると、当初は独軍は快進撃でしたが、ソ連軍の巻き返しに会って、戦線は膠着状態に陥ります。そして冬期に入り、独軍は苦戦を強いられている。
(日米開戦後に、ソ連軍は大攻勢をかけて、独軍を撃退しはじめます)

小野寺はこういた情報分析に基づいて、独を過大評価して三国同盟を締結することや対米開戦に踏み切ることに慎重・反対の考えを大本営に表明していたのでした。
繰り返しになりますが、小野寺は「陸軍大佐」です。
(「消えたヤルタ緊急密約電」 岡部信 新潮社)

日米開戦の直接の引き金になったのは、日本軍による南部仏印進駐(1941年6月)とこれに対する米の石油禁輸制裁です。

戦後の所作によって、この南部仏印進駐(南進)は陸軍が行ったことになっています。しかし歴史的事実は、海軍が陸軍や政府を説得して、南部仏印進駐を決定させたのです。

独ソ戦が開始されると政府・軍部内では、陸軍を中心に北進(対ソ開戦)が現実味を帯びます。
これに危機感を抱いたのが、海軍です。もしも陸軍が対ソ戦に備えるなら、膨大な予算を獲得できます。そうなれば、海軍は商売あがったりです(予算面で不利になります)。

そこで海軍(軍令部や海軍省)は予算獲得のためにも、対米強硬を主張しはじめたのです。そして海軍は、政府・軍部内で北進に傾斜しかけた流れを南進へと向かわせ、陸軍を説得してついに南部仏印進駐を行わせたのでした。
(防衛研究所 ・海軍文書「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」の評価)この論文はネットでご覧になれます。

日米戦争(太平洋戦争)は、海軍がおこした「海軍による海軍のための戦争」でもあったのです。
ではなぜ、山本や米内や井上が日米戦争に反対したという、歴史的事実とは異なる話が世間に流布したのかといえば、海軍を持ちあげた作家たちの存在です。

具体的に言えば、阿川弘之らが海軍を美化するために、作品を通して偽情報宣伝を行い、海軍の責任(犯罪性)を隠蔽して、陸軍だけに責任を押し付けてきたことが大きな原因なのです。
(「近衛文麿の戦争責任」 中川八洋 PHP)

ここで回答を整理しますと

①日米戦争に反対だった陸軍軍人には、小野寺信らがいました。

②海軍が南部仏印進駐(南進)を行わせて、日米戦争の引き金を直接引いたのです。陸軍が日米戦争を直接引き起こしたというのは、事実ではありません。(もちろん、陸軍にも責任はあります)

③山本・米内・井上は、三国同盟(1940)には慎重でしたが、彼らが米国との戦争に直接反対したという事実はありません。

④なぜ山本らが日米戦争に反対だった、というニセの事実が信じられているかといえば、阿川弘之らの作家たちが、海軍の責任を隠蔽する作品を世に出して、世間を欺いてきたからです。

質問者様には、初め聞く衝撃的な内容であると存じます。
しかし、確証に基づいた全くの事実であると、申し上げておきます。

http://www.pumpup.sakura.ne.jp/wikicorpus/japanese/en/search?query=%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%AA&how=1
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立姿 の 中央 左 は 従軍 服 を 着用 し た 通訳 担当 の 陸軍 軍属 判任官 File : Surrender of American troops at Corregidor . jpg | 1942 年 5 月 、 フィリピン 攻略 戦 において 、 捕虜 の アメリカ 極東 陸軍 将兵 と 写る 下士官 兵 File : Savoia - Marchetti SM . 75 GA RT in East Asia . jpg | 1942 年 7 月 、 SM . 75 GA RT で 来日 し た イタリア 空軍 少佐 ( アントニオ ・ モスカテッリ ) 以下 、 イタリア 王国 軍 将兵 と 写る 将校   File : Doolittle Raider RL Hite blindfolded by Japanese 1942 . jpg | 1942 年 、 ドーリットル 空襲 において 、 捕虜 と なっ た アメリカ 陸軍 航空 軍 将校 を 連行 する 憲兵 下士官 ないし 上等 兵 File : Nationalists and Japanese Army officers . jpg | 1942 年 頃 、 モハマッド・ハッタ ら インドネシア 独立 運動 家 ら と 写る 将校 および 、 従軍 服 を 着用 し た 陸軍 軍属 高等官 ( 手前 最 左 等 ) File : Falkenhorst onodera morath fjell festning 1943 triple 28 cm triple naval gun gneisenau . jpg | 1942 年 12 月 、 ドイツ 国防 軍 第 21 軍 の 要塞 を 視察 訪問 し た 陸軍 大佐 ( スウェーデン 公使館 付 武官 小野寺 信 ) 以下 、 日 独 陸海空 軍 の 将校 。

モスカテッリ 操縦 の SM . 75 GA RT は 1942 年 6 月 29 日 05 : 30 に グイドーニア を 離陸 し 、 その 日 の 内 に 2 , 030 km ( 1 , 261 ml ) 離れ た ドイツ 占領 下 の ウクライナザポリージャ に ある 枢軸 国 が 使用 できる 再 東端 の 飛行場 に 着陸 し た 。

地図 上 の ソ連 領内 の 位置 が 不 正確 な こと が わかり モスカテッリ は 発見 さ れる こと を 避ける ため に 高度 を 5 , 000 m ( 16 , 404 ft ) まで 上げ なけれ ば なら ず 、 これ により 予定 より も 早く 機体 に 備え た 備蓄 酸素 を 使い切っ て しまっ た 。

この 後 、 モスカテッリ は グイドーニア・モンテチェーリオ まで 機体 を 飛行 さ せ 、 この 任務 を 完遂 し た 。 

http://www.warbirds.jp/data/ita/htm/sm79.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3_SM.75#.E3.83.AD.E3.83.BC.E3.83.9E_-_.E6.9D.B1.E4.BA.AC.E9.96.93.E9.A3.9B.E8.A1.8C

文章はwikipediaの方が詳しいので真偽は別にして(〜〜)

運用の歴史
イタリアの民間航空での就役

SM.75は1937年11月にピエモンテ州ノヴァーラで初飛行を行い、1938年にアラ・リットリア航空で1939年にLATI航空でヨーロッパと南アメリカ路線に、第二次エチオピア戦争でのアビシニア占領後にはローマ-アディスアベバ路線にも就航した。SM.75は4名の搭乗員、17名の乗客とその荷物を搭載して高度4,000 m (13,123 ft) を時速362 km/h (225 mph) で1,721 kms (1,069 ml) の距離を飛行する能力を有することを易々と証明して見せ、ペイロードを搭載しての距離間速度記録と周回航続距離飛行の世界記録を幾つか樹立した。1機のSM.75が無着陸飛行記録挑戦のために改造され、1939年に約12,000 km (7,456 ml) を飛行して記録を樹立した。

1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると民間のSM.75を使用したイタリアの海外植民地への補給任務は続けられ、これは戦争の進行に連れて規模が縮小されていったが1943年9月8日のイタリアと連合国との講和が発効するまで続けられた。民間のSM.75は南アメリカでイタリアが米国に宣戦布告する1941年12月まで運用が続けられていた。
イタリアの軍事航空での就役

1940年6月にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると「レジア・アエロノーティカ」はアビシニア、イタリア領ソマリランドエリトリアといった英国支配地域と英軍に囲まれた東アフリカのイタリア海外領土との連絡を維持する航空機を必要としていた。入手可能なSM.75は、12.7-mm (0.5-in) ブレダ=SAFAT機関銃を装備したカプローニ=ランチアニ(Caproni-Lanciani)銃塔とそれを操作する5人目の搭乗員を追加されて軍用機化された。新造のSM.75は最大24名の兵員を長距離運搬能力と旅客機型と同等の性能が発揮できるように設計し直されて製造された[5]。
特別任務

主にプロパガンダ目的のために幾度かの著名な飛行任務が実施された。
アスマラへの宣伝ビラ投下任務

1942年1月に「レジア・アエロノーティカ」の最高司令官Rino Corso Fougier)将軍はローマ - 東京間の長距離飛行の計画を立て始めた。最近の南アメリカと東アフリカに於ける長距離飛行の経験を操縦士と共に検討した結果、この任務には防御武装と自動防漏燃料タンクを装備しても優れた航続性能によりSM.82やSM.83よりもSM.75の方がより適しているという結論に達した。この飛行任務にはシリアル番号:MM.60537のSM.75が選定され、長距離型のSM.75 GAの初号機に改装された[6]。

SM.75 GAの最初の任務は、東アフリカの元イタリア占領地域、現在は英国の支配地域上空で「イタリア入植民へ。ローマは君たちのことを忘れはしない。我々は必ず戻ってくる!」と記した宣伝ビラの投下であった。機長のアメデオ・パラディシ(Amadeo Paradisi)中佐が操縦し5名の搭乗員が乗った機体はローマからリビヤのベンガジへ飛んだ。1942年5月7日 17:30にSM.75 GAはベンガジから2,700 km (1,680 ml)の第1レグへ出発した。計画通り3,000 m (9,842 ft)を飛行していたが悪天候のためパラディシは4,000 m (13,123 ft)に高度を上げた。10時間20分後、SM.75 GAはエリトリアアスマラ上空に到達し宣伝ビラを投下した。その後、計画ではベンガジに戻る予定であったがパラディシは直接ローマに帰還することに決め、当初は高度3,500 m (11,482 ft)を飛行していたが後に燃料消費を最小に抑えるために5,200 m (17,060 ft)に高度を上げた。この任務の全行程は28時間に及んだ[7]。

ローマで整備士が機体に幾つかの試験を実施したが、ローマに到着して2日後の1942年5月11日にSM.75GAはローマからグイドーニア・モンテチェーリオへの50 km (31 ml)の搬送飛行中に全3基のエンジンが同時に故障した。パラディシの緊急着陸により機体は破壊され、パラディシ自身は脚を失ったがその他の搭乗員は負傷しなかった[8]。
ローマ - 東京間飛行
1942年7月の東アジア訪問時にSM.75 GA RT 機の前に立つ搭乗員と日本の当局者。
(画像::https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Savoia-Marchetti_SM.75_GA_RT_in_East_Asia.jpg/250px-Savoia-Marchetti_SM.75_GA_RT_in_East_Asia.jpg)

SM.75 GA初号機を失った後で2機目のSM.75(シリアル番号:MM.60539)がローマ - 東京間飛行用にSM.75 GA仕様に改装された。1942年6月9日に準備が完了し、SM.75 GA RT(「"Rome - Tokyo"」の意)と命名された。操縦士のアントニオ・モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐が任務全体の責任者に任命されると共にイタリアは英国が既存の暗号を解読していると確信していたため、イタリアの航空技量を宣伝するために日本と枢軸国の間の通信に新しい暗号を用いた。イタリアと戦争状態にあったソビエト連邦領空の数千kmを飛行する必要性と著しく長距離の飛行の実施ということがこの飛行を困難なものとしていた[9]。

モスカテッリ操縦のSM.75 GA RTは1942年6月29日 05:30にグイドーニアを離陸し、その日の内に2,030 km (1,261 ml) 離れたドイツ占領下のウクライナザポリージャにある枢軸国が使用できる再東端の飛行場に着陸した。日本(当時はソ連と戦争状態に無かった)を困惑させることになるような書類や証拠品を持たず、搭乗員はもし敵領域に着陸せざるを得なくなった場合は機体と証拠書類を焼却処分するように命令されていた。重量21,500 kg (47,400 lb) の内 11,000 kg (24,250 lb) -- 10,340 リットル (2,721 ガロン) --の燃料を搭載した過荷重状態のSM.75 GA RTがザポリージャの700 m (2,297 ft) の草地滑走路から離陸するのは困難で危険をはらんでいた。厳格な通信封鎖が実施され、ソ連軍の対空砲火、悪天候、ソ連軍戦闘機(おそらくヤコヴレフ Yak-1)との遭遇にも関わらず夜間を無傷で過ごし、アラル海北岸、バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空を横断した。地図上のソ連領内の位置が不正確なことがわかりモスカテッリは発見されることを避けるために高度を5,000 m (16,404 ft) まで上げなければならず、これにより予定よりも早く機体に備えた備蓄酸素を使い切ってしまった。モンゴル上空では砂嵐にも巻き込まれたが、1942年6月30日 22:00に搭乗員は黄河を視認し、最後の燃料を使用してザポリージャから東に6,000 km (3,728 ml) にある日本占領下の内モンゴル、包頭の海抜1,000 m (3,280 ft) 以上にある1,300 m (4,270 ft) 滑走路に1942年7月1日 15:30に着陸した。日本の空域内で安全なように日本の標識が施された機体は通訳を同乗させ、東京への2,700 km (1,678 ml) の最終レグを飛行した[10]。

1942年7月16日にSM.75 GA RTは帰路につき、包頭に到着すると日本の標識はイタリアのものに再度変更された。1942年7月18日 21:45に包頭を離陸し、往路を辿り29時間25分の滞空、6,350 km (3,950 ml) を飛行してウクライナオデッサに着陸した。この後、モスカテッリはグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、この任務を完遂した。外交上の理由による日本の不同意にも関わらずイタリアは1942年8月2日にこの出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになりイタリアは再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった[11]。

アビシニアへの爆撃任務

1943年にアビシニアのグラの飛行場に駐留する米国の爆撃機を破壊する目的のためだけにSM.75から製作された2機のSM.75 GAが爆撃任務に従事した。3,000 km (1,860 ml) 以上彼方の目標に到達するために2機(民間登録記号:I-BUBAとI-TAMO、軍用シリアル番号:MM.60539とMM.60543に再登録)が11,000 kg (24,250 lb) の燃料を搭載し、「イオッツァ」("Jozza")爆撃照準器と1,200 kg (2,650 lb) の爆弾を搭載可能な爆弾倉を装備するように改装された。ヴィッラ(Villa)とペローリ(Peroli)という名の将校に率いられた最も熟練した搭乗員がこの任務のために選抜された。

爆撃任務は1943年5月23日 06:30に当時「レジア・アエロノーティカ」の最東端の飛行場があったロドス島から開始された。空虚重量が10,200 kg (22,490 lb) の機体は離陸時の重量が24,000 kg (52,910 lb) にもなっていた。SM.75 GAのエンジンは出力性能よりも航続性能と経済性を重視した調整がなされていたため、燃料と爆弾を搭載した過荷重状態での離陸は困難であった。出発当初は低空で飛行し、10:00になって改造型SM.75 GAは高度3,000 m (9,842 ft) に上昇した。かなりの燃料を消費してしまっていたペローリ機はポートスーダンに爆弾を投下し、23時間滞空した後の1943年5月24日 05:30に無事ロードス島に帰還した。その一方でヴィッラ機は単機で飛行を続け、前線のかなり後方に位置しているにも関わらず重防御が施されたグラ飛行場の上空に18:45に到着し爆弾を投下した。1発が投下に失敗して機内に残され爆発の危険があったがヴィッラ機の任務は成功し、6,600 km (4,100 ml) 以上を飛行し24時間15分滞空後、ペローリ機に遅れること1時間15分の1943年5月24日 06:45に無事ロードス島に帰還した[12]。
イタリア共同交戦空軍

1943年9月にイタリアが連合国に降伏すると数機のSM.75がイタリア共同交戦空軍に就役し、戦争の残りの期間を連合国側で戦った。

・・・で結局 何を書こうとしていたのかというと

【どこからたどっていっても興味のターゲットは歴史の捏造と自分自身の奇妙奇天烈な
史眼への《違和感\信頼感》弄り】